菅野の結婚式に出席した帰り道、雨に打たれながら、俺は1つの真理を得た。

俺はどんな人間か?

周りの人は言う。「○○は優しい」と。今までさんざん言われてきた。

そのきっかけは何だっただろう?

今となってはわからないが、確かに俺は他人が嫌な思いをしているのを見ることが嫌いだ。(自分が同じ目に合ったら・・・と考えてしまう)

人に喜んでいる姿を見ることが、俺の喜びだった。

優しかったわけじゃない。俺が、俺自身が人の喜ぶ姿が好きだっただけだ。

それがいつしか、周りにも優しい人として認識されていった。

そしてそれが、仕事のストレスと相まって、「うつ病一歩手前」とまで医者に言われることとなった。この諸悪の根源は何か?

 

・他人に尽くすことの度が過ぎてしまい、自分の心にストレスを蓄えるようになった

・他人の「やさしい」という期待に応えようとするあまり、無自覚のうちに自分らしく生きることを捨て、「やさしい」人間であろうとすることを選んでいた。その結果、ストレスを蓄えるようになった

・その両方

 

俺が友達と遊ぶことより、自宅で引きこもることを優先してしまう理由はここにあるのではないだろうか。俺は友達から遊びに誘われることは多くても、友達を誘って何かをしようと思ったことなど、ほとんどないのだ。

友達と遊ぶときにはいつもの「優しい自分」を演じた。無意識のうちにだ。俺は、ずっと自分が演者をしているなんて考えたことはなかった。だから、心から楽しめていなかったからではないのか。いつもいつも、人のため。誰かのために生きた。

 

そこに仕事のストレスが押しかかり、俺はもうストレスを軽減してくれる何かしらの薬なくしては、まともに振る舞うことすらできなくなっているのだ。

今年度の健康診断で、通院するほどではないが腎臓機能低下が見られると書かれていた。これはブロンのせいではないのか?そんな気がしてならない

俺は心や健康を害してでも、優しい自分を保ち続けようとしている

なんだ、これは?

俺は自分の感情を殺して、ただ他人の気持ちを優先し続ける、そんな生涯を送ろうとしているのか。たった一度の人生を

だが、今更それを思ったところで、30年近くも培ってきた人間性を変えるのは並大抵のことではない